モンテッソーリ教育と算数・数学
「算数・数学センスへの扉」から、もう少し進んだところにある「算数・数学センスへの道」というべきものは別ページに譲りましたので、ここでは、もっと扉に近いところのお話に切り替えたいと思います。
実は、標題にある「モンテッソーリ教育」に関しては、ブログではあまり書いてません。
それというのも、「帝都大学へのビジョン」の別冊2に当たる「子育て18切符:学習の本質発 モンテッソーリ経由 ロマン行」に、我が子たちを真正のモンテッソーリに通わせた経験をまじえながら記しているからに他なりません。
ネタばれになることは今までの購入者さんのご不快を買うことになりますので、本質は一切語りませんが、結論だけ言いますと、モンテッソーリ教育が算数や数学センスに直結するわけではありません。
とは言っても、悪い方向性で作用することは絶対にあり得ないことだけは確かと判断します。
別に、九九も小学校5年生まで完璧に言えなかった娘が、その後は「東大でも行けるほど考える力が素晴らしい」などと評価されたからではありません。
当たり前のことですが、モンテッソーリ教育の理論及び教具は、算数や数学に秀でるため、あるいは将棋に強くなるためにあるものでも、天才にするためにあるものでもないからです。
一言で言えば、全面的な発達をアシストする中で、自分の得意なことを見つけ、活き活きとした人生をそれぞれの子どもたちが送れるための素地・土台を作るための教育理論であり教育手段です。
もちろん、結果として算数・数学を伸ばす素地を作る可能性はきちんと仕込まれていますよ。
それは、フレーベル教育理論や教育手段である「恩物」にも同じことが言えます。
どうも、そこのところを歪曲して「英才教育」に繋げて商売にしたい輩の方が多いことが、親心を惑わす元凶になっているようですね。
モンテッソーリ教育は経験及び科学的考察によって周到に用意された「教具」に特徴があるわけですが、その中には「数の教具」「感覚の教具」というジャンルの教具があります。
日本の一般的な保育・幼稚園では、算数や数学に繋がっていく数学的知性や空間感覚把握知性、論理的知性を刺激する教育はなおざりにされている傾向が強いですので、その意味では、算数力や数学力に繋がっていく素地ができる可能性は高いと言えるかもしれません。
また、特に空間感覚把握知性においては、フレーベルの「恩物(おんぶつ)」と呼ばれる「教具」に関しても同じことが言えるでしょうか!
確実に断定できない具体的理由の一つは、モンテッソーリでは子どもたちがしたい「〇〇〇」を尊重しますので、「数の教具」「感覚の教具」の教具に一切興味を示さずに経験しない場合があるからです。
あまりの偏りを観察した場合、教員の裁量で「これもしてみない?」と誘うことはあるかもしれませんが、それとて確定的なものではないでしょうからね。
一つだけ進言申し上げておきたいことは、「モンテッソーリ教育」には認定制度はありませんが、モンテッソーリ協会の資格認定を受けた教員が居ないようでは正式な「モンテッソーリ教育」の園とは呼べません。
併せて「英才教育」だの「天才を育てる」などというキャッチフレーズが掲げられているのであれば、それはモンテッソーリの名前を利用しているだけであることは明々白々でしょうね。
モンテッソーリ教育の正式な教育を受けてすら、M.モンテッソーリ女史は、指導者の質を心配されていたほどだということを、頭に入れておかれることは、保護者のあなたにも有益なことだと思います。
モンテッソーリの教具だけを調達・準備して、その一つ一つの教具の意義すら理解していない指導者のもとで「モンテッソーリ教育採用!」だけが謳われることが多いでしょうから、しっかりと見極める力が必要です。
最後に一つ加えておくとすれば、モンテッソーリ教育の日本における第一人者の方の著作にて、「知恵・知性の4大要素」を見ますと、私たちが本編や算数・数学の資料で、具体的な指導指針として使う言葉と見事にオーバーラップしています。
それ以上に、モンテッソーリ女史が最重要とみなした「〇〇」という概念は、私たちが「やる気」という面で最重要視する「日常生活における△△」という概念と1:1に対応するとみなしています。
これらの理論を綜合しますと、各教科を個別に伸ばすことを考えるより、「知恵・知性」全体を育むという共通した考えを持つことの妥当性と賢明さが浮かび上がって来ます。
家庭でモンテッソーリを採り入れたいと思われるなら、モンテッソーリ教育に関する論文や書籍は結構出ていますから、商売人の浅薄な言葉だけに洗脳されるのではなく、広く深く研究されれば上手く活用できるのではないでしょうか?
必ず、然るべき人の然るべき論文に目を通されんことをおすすめ致します。
併せて、本編でも根拠として言及しています神経科学(脳科学)と対照されますと、モンテッソーリやフレーベルの科学的実証主義の先見性が理解できるのではないでしょうか。
これらの本質を学ばれ、デメリットが心配される事柄に関しては対処策をも想定しておかれるのであれば、家庭での教育にも採用できることは多くあると考えます。
さすれば、
などの教具を家庭で導入されるのも、たとえ良き指導に巡り合うことがなくとも、自前で有効な働きかけの一つができるのではないかとも考えます。
その「一つ」の積み重ねが、よりベターな子育てとなっていくことでしょう。
算数や数学のセンスは先天的とか後天的とか、おら知らねぇ
よく、「あいつは、もともと頭がいいんだよ!」とか「俺は、もともと頭が悪いから…」といった言葉があちこちで呟かれます。
算数や数学のセンスが先天的か後天的かという論議は、古くから尽きることなく続いているのですが、
- 数学が出来ない人は「先天的だ!」と吐き捨て、
- 数学が出来る人は「後天的だ!」と仰る
これが、たいていの構図だと思いますが、如何でしょうか?
その思い込み様によって、片や興味を惹かれることが手を動かしますから、どんどんセンスが磨かれて来ますし、片や興味を持てないが故に手を動かそうとしませんから、耐えがたい時間を凌ぐだけでセンスなどは生まれようもないということになります。
確かに、体格や性格は当然のこと、運動神経や音感・音楽センスにも先天的な差があるように、数学センスにだって先天的な差があって当たり前のことなんですが、だからといって、学んだり楽しんだりすることを放棄してしまうと、このように大きな差に増幅されてしまうことを、どのように判断されるのかという問題に帰ってきます。
運動神経や音楽センスであれば、自分はダメだけれど、これらに優れている人をは尊敬したりする傾向が強い一方、なぜか、数学センスに優れていたりする人には「何が偉いねん?」と軽蔑する傾向が少し強く出てくるところが不思議です。
まさに、毛利 衛 先生が語られたように「よく勉強だけではなく、他の特技をもった子供達も評価するべきだという論調を耳にするが、事実は全く逆で、スポーツは評価しても、音楽は評価しても、勉強は評価しない。」風潮が、日本では出来上がってしまった現象を垣間見るかのようです。
まぁ、音楽やスポーツは受け身としての楽しみや快感を提供してくれる分野である(主体としての自分と競合することは絶対にない別世界)ことに比して、後者は、主体としての自分が身を置く社会では自分の競合相手になり得るということが、無意識的な嫉妬や劣等感として表出してしまう面もあるのではないかと分析できそうです。
さて、よく、「何故だろう?」という子どもの疑問に上手く答えられないことが子どもの興味を潰すという論が語られます。
もちろん、大局的にはそうなんだろうと思いますが、疑問すら持たなかった子が、何かの拍子に突然興味を抱いたりすることもあります。
どこまでが先天的でどこからが後天的などとの線引きなど出来るものではありません。
ただ、言えることは、前者は「先天的だ!」という言い訳をすることによって、数学のセンスを養うことによるメリットを自ら放棄してしまっているということだけは確かだということですね。
そして、こうなってしまうケースの多くは、算数や数学の世界に留まらず、あらゆることに対して連鎖するものであり、それこそが問題とすべき本質ではないでしょうか?
スポーツができないと「スポーツなんかできたってクソの役にもたたねぇ」、音楽ができないと「音楽なんてクソの役にもたたねぇ」と、あらゆることに対して「できない自分」を正当化しようとするものです。
その言い訳体質こそが「先天的なのでは?」と切り返してはダメですか?
これは冗談ですが、おおかたの本当の舞台裏は、努力してどんなことでもトライすることに意味があることを、環境から教えられなかった、学ばなかったということに尽きるでしょう。
ですから、ここでは、「先天的な要素もあり、後天的な要素もあり!」は明確である以上、どちらが優勢かなどといった不毛の暇人論議は控えて、算数や数学のセンスの扉を開けるためのいくつかのヒントを時とともに重ねていこうと思います。
今は、「何事に対しても一生懸命に分かろうと努力することこそがセンスへの入場券を手に入れることだ」とだけ申し上げておきましょう。
算数・数学センスとは「理解力」と「整理力」「分析力」から生まれ「連想力」「想像力」に帰結するものであり、真剣に刻んだ経験と比較対照しながら知識を整理していく経験の場数を積み重ねることで生まれてくるものです。
音楽のセンスとて同じじゃないですか?
その結果、音楽の音色も数学の数式も美しくなっていくのです。
数学の場合、東にシンプルで美しい出力をする人がいれば、積み重ねをしない人には単に「ズルい」「卑怯なやつ」としか映らないことになってしまうところに哀しさが漂います。
ネットも書籍も含めて、勉強法に関してまともなことを執筆しているのは・・・
本日もお申込みありがとうございます。
SSL化して自社ドメイン移設後も、FBの「いいね」の数も何だかジワジワ伸びておりますこと感謝申し上げます。
はっきり申し上げて、ネットも書籍も含めて、勉強法に関してまともなことを執筆しているのは、マルチリンガルの松平勝男先生(代表執筆者との対話はこちら)と私たちしか見当たらないなぁというのが本音です。
出版業界も、生き残るために誰の執筆でも、と言うより面白おかしいければいいという類の執筆を出版せざるを得ないのは分かるのですが...。
これでは、かつての経済大国第2位も第3位、優秀な頭脳を持った国民というかつての評価も今は昔、下降の一途を辿ることは目に見えます。
ある意味いいことなのかもしれませんが、大変な時代に適応できない危惧が...。
あなたやあなたのお子さんが、押しも押されぬ真の実力を伴った未来を築くためのすべて!
たまたま見つけたのですが、某塾のHPで「ビジョン」の本質が画像までそっくりにリライトされて使われていました。(苦笑)
・・・
「帝都大学へのビジョン」は「バイブル」と頼られて10年。
受験合格に留まらない一生モノの栄養素が自分の未知の力を引き出す!
教材では、英数と算数の興味の引き金となり、且つ本質に目を向かせてしまうコアな問題を精選し、不器用レベルの脳細胞の働かせ方目線で解説。
- 受付時間:24時間年中無休
正しい勉強法 帝都大学へのビジョン 立ち読み
「帝都大学へのビジョン本編」と「別冊2:子育て18切符」が含まれています。
東大卒だから京大卒だから有名大卒だからといって素晴らしい指導が出来るというものではありません。
逆に、「頭が悪かったからできない子の気持ちがよく分かる」という理屈だけでは、ごく一部の例外を除いては、素晴らしい指導はもっと出来るものではありません。
特に、2010年代に入ってからは、前者も後者も、何の実績も何の精進も何の実力も何の愛情も無き商売人の作文テクニックやキャッチコピーのオンパレードというか品評会になっていることにあなたも気づいておられるとは思います。
後者ならまだしも、そんなチャラチャラしたレベルでも有名大に入れる時代ですから、権威は半分は失墜していることを認識し、見分ける目が必須の時代が来ているのかも知れません。
発刊10周年記念
「帝都大学へのビジョン」は「バイブル」と頼られて10年。
受験合格に留まらない一生モノの栄養素が自分の未知の力を引き出す!
教材では、英数と算数の興味の引き金となり、且つ本質に目を向かせてしまうコアな問題を精選し、不器用レベルの脳細胞の働かせ方目線で解説。
- 受付時間:24時間年中無休
子育て18切符 立ち読み~「泣いた、唸った」保護者さん続出!
「別冊2:子育て18切符」の立ち読みができます。
「別冊2:子育て18切符」の詳細及びご購入者の声は、下記をご参考ください。
小・中学生保護者コース~子育て18切符:学習の本質発 モンテッソーリ経由 ロマン行
下記PDF画面の右上のポップアップボタンを押すとPDFが単独で表示され、その下部のズームボタン(「幅を合わせる」)をクリックしていただくと、最も見やすいかと思います。
ダウンロードは、この下部からできます。
但し、記事としてパチられることを防止するため、印刷は出来ません。m(__)m