いい加減な勉強法で身を亡ぼすべからず | 帝都学習クリニック

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算数や数学のセンスは先天的とか後天的とか、おら知らねぇ

算数・数学センスへの扉

よく、「あいつは、もともと頭がいいんだよ!」とか「俺は、もともと頭が悪いから…」といった言葉があちこちで呟かれます。

算数や数学のセンスが先天的か後天的かという論議は、古くから尽きることなく続いているのですが、

  • 数学が出来ない人は「先天的だ!」と吐き捨て、
  • 数学が出来る人は「後天的だ!」と仰る

これが、たいていの構図だと思いますが、如何でしょうか?

その思い込み様によって、片や興味を惹かれることが手を動かしますから、どんどんセンスが磨かれて来ますし、片や興味を持てないが故に手を動かそうとしませんから、耐えがたい時間を凌ぐだけでセンスなどは生まれようもないということになります。

確かに、体格や性格は当然のこと、運動神経や音感・音楽センスにも先天的な差があるように、数学センスにだって先天的な差があって当たり前のことなんですが、だからといって、学んだり楽しんだりすることを放棄してしまうと、このように大きな差に増幅されてしまうことを、どのように判断されるのかという問題に帰ってきます。

運動神経や音楽センスであれば、自分はダメだけれど、これらに優れている人をは尊敬したりする傾向が強い一方、なぜか、数学センスに優れていたりする人には「何が偉いねん?」と軽蔑する傾向が少し強く出てくるところが不思議です。

まさに、毛利 衛 先生が語られたように「よく勉強だけではなく、他の特技をもった子供達も評価するべきだという論調を耳にするが、事実は全く逆で、スポーツは評価しても、音楽は評価しても、勉強は評価しない。」風潮が、日本では出来上がってしまった現象を垣間見るかのようです。

まぁ、音楽やスポーツは受け身としての楽しみや快感を提供してくれる分野である(主体としての自分と競合することは絶対にない別世界)ことに比して、後者は、主体としての自分が身を置く社会では自分の競合相手になり得るということが、無意識的な嫉妬や劣等感として表出してしまう面もあるのではないかと分析できそうです。

 

さて、よく、「何故だろう?」という子どもの疑問に上手く答えられないことが子どもの興味を潰すという論が語られます。

もちろん、大局的にはそうなんだろうと思いますが、疑問すら持たなかった子が、何かの拍子に突然興味を抱いたりすることもあります。

どこまでが先天的でどこからが後天的などとの線引きなど出来るものではありません。

ただ、言えることは、前者は「先天的だ!」という言い訳をすることによって、数学のセンスを養うことによるメリットを自ら放棄してしまっているということだけは確かだということですね。

そして、こうなってしまうケースの多くは、算数や数学の世界に留まらず、あらゆることに対して連鎖するものであり、それこそが問題とすべき本質ではないでしょうか?

スポーツができないと「スポーツなんかできたってクソの役にもたたねぇ」、音楽ができないと「音楽なんてクソの役にもたたねぇ」と、あらゆることに対して「できない自分」を正当化しようとするものです。

その言い訳体質こそが「先天的なのでは?」と切り返してはダメですか?

これは冗談ですが、おおかたの本当の舞台裏は、努力してどんなことでもトライすることに意味があることを、環境から教えられなかった、学ばなかったということに尽きるでしょう。

ですから、ここでは、「先天的な要素もあり、後天的な要素もあり!」は明確である以上、どちらが優勢かなどといった不毛の暇人論議は控えて、算数や数学のセンスの扉を開けるためのいくつかのヒントを時とともに重ねていこうと思います。

今は、「何事に対しても一生懸命に分かろうと努力することこそがセンスへの入場券を手に入れることだ」とだけ申し上げておきましょう。

算数・数学センスとは「理解力」と「整理力」「分析力」から生まれ「連想力」「想像力」に帰結するものであり、真剣に刻んだ経験と比較対照しながら知識を整理していく経験の場数を積み重ねることで生まれてくるものです。

音楽のセンスとて同じじゃないですか?

その結果、音楽の音色も数学の数式も美しくなっていくのです。

数学の場合、東にシンプルで美しい出力をする人がいれば、積み重ねをしない人には単に「ズルい」「卑怯なやつ」としか映らないことになってしまうところに哀しさが漂います。

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