子どもの語彙はできるだけ少なくするがいい。
子どもの語彙はできるだけ少なくするがいい。
観念よりも多くのことばを知っているというのは、考えられることよりも多くのことがしゃべれるというのは、ひじょうに大きな不都合である。
都会の人にくらべて一般に農民がいっそう正しい精神の持ち主である理由の一つは、かれらの語彙がかぎられていることにあると思う。
かれらはそれほど多くの観念をもってはいないが、それらの観念をひじょうによく比較することができる。
ルソー『エミール』
昔からある意味で有名だった森友学園が経営する塚本幼稚園の園児が、運動会で「大人は尖閣諸島や竹島を守り、日本を悪者として扱う中国、韓国は心を改めて」「安保法制国会通過良かったです」「安倍首相頑張れ」と手を上げて宣誓する映像を見た方も多かったのではないでしょうか?
大人顔負けの『多弁能なし』を大量排出しそうな時代
自民党の小泉進次郎氏ですら「異様」と感想を述べたこの光景を見て、普通の一般人で異様だと思わない人はほんの一握りでしょう。
しかし、今まで公におかしいと問題にされることすらなかったのもおかしな話です。
外山滋比古先生でもありませんが、αの言葉を離れβの言葉を習得していく過程においては、自分の行動で経験し、裏打ちしながら、その言葉の観念を伴って習得していかなければなりません。
さもなくば、自分の頭で考えることが出来ないまま成長してしまいます。
結果、ルソーの言う『考えられることよりも多くのことがしゃべれる』大人、所謂『多弁能なし』に繋がってきます。
即ち、学ぶにもTPOが必要であり、発酵食品のように、それなりの時間を掛けることが必要であることは明白ではないでしょうか?
『熟成』という言葉が好まれる割には、人間に関しては『早熟』を要求してしまうのはどうしてなのでしょうか?
そもそも、これらの言葉は幼稚園の時に習得しなければいけない言葉でしょうか?
それも一方的に叩き込まれるという様式をもって…。
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